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『鶏海山の幸おかだ』女将 岡田清香

本当は恥ずかしくて、あまり人にいう事ではないのかもしれませんが、当ホームページに来ていただいたあなたには、お店の事、そして私の事を知っていただきたいので、正直にお話します。

本日は、飲食店の激戦区とも言われる福島の数多くのお店の中からこちらへ訪れて頂いてありがとうございます。

『鶏海山の幸おかだ』は、今日の疲れが優しい味の料理で寛ぎ癒され、あなたの明日への活力が充電されるように、例えば、田舎に来た時に懐かしさで癒されほっとする空間のように、日本料理の文化と伝統を残す為の作る努力と手間を惜しまない店でありたいと考えています。

ところで、初めてご来店される為にここへ訪れられた時に、女性が切り盛りする店に興味はもたれても家庭料理の延長ではないか、素人の料理ではないかな、と宴会の幹事さんであれば尚更、任せることに少し不安な気持ちになる事があるのではないかと思います。

ですから、少しでもあなたに不安な気持ちを解消してもらえるように、女将の私がどんな人間なのか、そして、どうしてこの店を始めたのかを、思い切ってお話しすることにしました。

それは、ちょっと前の話になりますが。少しだけ聞いて下さい。
私は、山口県の出身ですが、母校は、東京の自由学園です。生きる力を身につける学園は日本で初めて給食を作り始めた学校です。高校生の私も一緒に入学したばかりの友人26名と先生2名で600人分の給食を午前中に料理の授業の一環として週1度、作っていました。順をおって、マヨネーズやグラタンなどホワイトソースも全て手作りで市販品を使いませんでした。ご飯も薪を使い、釜で炊きました。

その後、大阪の辻調理師専門学校に入学し、調理師やふぐ調理の免許を取得し卒業。ご縁で高級日本料理店の板前として就職しました。

そこは、思いがけず大阪へ来て一目惚れの憧れのお店でした。親父さんは、『料理の鉄人』で有名になられた道場六三郎さんと肩を並べて料理本を出版されておられる大阪を代表する料理人です。そこへ、当時、男11人の中で女1人という展開で私の修行時代はスタートしました。

『女だけれども自分が出来る限りの事はしていこう。』当時の私には、独立開店という言葉のイメージは想像もつかず、ひたすら目の前の事をするのに必死でした。
ここまでは、夢にまで描いたエリート板前の人生が、スムーズに運ばれてきています。

板前修業をしながら、出来ない人だと思われたくない余計なプライドが、貪欲となり働く意欲に変えてくれていました。

しかし、本当の動機は、高3の時にやりたことがわからず、とりあえず短大に進むも自分の意思が決定できない事にジレンマし、『これからの時代は手に職を持った方がいい』というピアノの調律師だった母からのアドバイスで興味のある料理に的を絞りました。 友人の『私だったら食べ飽きないからやるなら和食だな』に納得し、ようやく奮起。短大卒業後、洋菓子や西洋料理が頭をかすめる中で、『あなたが、初めて作ったお味噌汁の味は、お母さんが作るものと同じ味だった』と言う味の再現を褒めてくれる母の話が温かく背中を後押ししてくれました。入店した当時22歳の私には、仕込み〔下準備〕に平行して旧家に嫁に来たかの如くまかない作りを一日2食、決められた予算で買い物をし、味よく色よく見た目よく栄養バランスよく30分を目安に用意していました。

この時点で恥ずかしいのですが、実は、得意料理以外の献立で連日5人分を自分1人で作るのは、初めてでした。

しかし、板前修業をしながら、出来ない人だと思われたくない余計なプライドが、貪欲となり働く意欲に変えてくれていました。

この賄いは、親父さんを始めプロの料理人に食べていただくので一切妥協が出来ません。
だからといって調理師学校で作ったプロメニューを再現した賄いを作ったわけではありません。健康志向で身体に良い物をと考え、旬の野菜や魚を使った母の味の再現や自由学園時代の手作りのバランスよい料理でした。本音を言うと、限られた時間の中で本を広げながら作るような悠長な時間はありませんでした。作り方は、常にイメージしておきました。賄い作りは、仕事のごく一部の作業に過ぎないからです。

しかし、この賄い作りが、緊張感と自信と仕事の段取り、味、盛り付けの即決力をくれる重要な訓練だったのです。おかげで今も著名人が来店されても動揺無く用意できます。

親父さんの『うまい』この言葉の瞬間は、本当に嬉しかったです。美味しいと認められた合図だからです。手の器用さは、重ねる毎に上達しますが、味付けはある意味センスとバランスと自信です。私に自信をくれた魔法の言葉です。

しばらくして、親父さんから『煮物係りにならないか。』という更にプレッシャーと緊張感が走るエリートの話が有りました。それは、気軽な仕事ではなく、店の顔に直結した大事な味付けの仕事です。誰よりも決断された親父さんが迷われて決められたこと。ひたすら決心を固めて前進しました。

漫画の『美味しんぼ』の取材依頼が有りました。

そんな在る時、その店に漫画の『美味しんぼ』の取材依頼が有りました。
煮物担当をしていた私も漫画に実名で登場し原作者の雁屋哲さんからインタビューを受けたのを思い出します。

それは、私の料理人である腕前に興味があったのではなく、なぜ若い女の子が高級日本料理店で、板前をしているのか。と理由が知りたかったからです。

この場合、『将来自分で店を出したいから』と目標がありそうですが、車屋と専業主婦の両親の元で育った私には、自分で店を開くという事が、全くイメージ出来ませんでした。

本当のところは、毎日が必死で何とかそのポジションを維持したのが現状なので、店を出すという言葉を発するほどの度胸も自信も余裕もありませんでした。

しかし、あの時の頑張りが、今の底力につながり、3人の小さな子供達を抱えながらでも経営していく度胸が付いたのは、確かです。

私は、自信があった訳でも技術が最初からあった訳でもありません。毎日遅くに帰宅しては、ノート一枚にその日にした事を書き出し、又、はもを裁いたり、難しい料理等うまく出来ないときは、割烹店を営んでいた結婚前の主人の手助けで特訓。背伸びをするだけでなく、何とか上達し親父さんの役に立ちたいと努力をしただけです。

親父さんの口癖で『綺麗で遅いは誰でも出来る 早くて綺麗が職人技』とよく言われたものです。真剣勝負でがんばっても親父さんの描くように出来ず、人生で経験したことないほどよく怒られました。

しかし、本当に必死でしたが、真正面から向き合って逃げずに遣り通す。やれると心に決めて泣いても怒られてもついていく。そして、少しずつでも前進していく。それをずっと妥協せず自分の極限まで遣ってみる。限界と思わず殻を破って貫きとおす。ほんの少しでもいいから前へ行くことを諦めない。この辛抱があったからこそ、奥行きのある味わい深い料理が作れる状態になってきたのだと思います。

本当に素晴らしい発想と技術に演出、食材に無駄がなく最後まで食べつくす、どれをとっても美味しい料理。天才的な親父さんは、私にとってあの時も今も変わらず、一番憧れ尊敬する素晴らしい料理人です。
又一緒に調理場に立たせていただけた事は、私の誇りであり人生でかけがえのない財産です。浪速の伝統野菜を世の中に広め継承する為に努力をされ始めた頃にそのお手伝いをさせて頂けた事も幸運でした。

話は変わりますが、最近、食育について考えます。
栄養バランスよく朝昼晩と3食とる。 確かに健康に過ごすために必要不可欠です。

しかし、大切なのに何かがずれてきている気がします。日本は海に囲まれていて新鮮で美味しい魚介類や野菜や果物が豊富です。それなのに近くで獲れた昔から食べられているいわゆる地魚や伝統的な地場産の野菜等が、うまく家庭料理に反映されていない気がします。

日本は海に囲まれていて新鮮で美味しい魚介類や野菜や果物が豊富です。

日本人は魚をよく食べますが、最近は、骨の多い地魚よりも食べやすい鮭やまぐろ等の大きな魚の切り身や外国の魚が人気を集めているように思います。残念な事に小骨の多い魚を食べきれない大人も増えてきているのが現状です。

野菜に関しても料理するまでに手間のかかる山菜やソーメン瓜、ずいき、むかごなど見たことも食べ方も味も知らず身近な美味しさに出会えてない人も増えてきているように思います。

日本は外食産業が普及して、あらゆる国の食材や料理が手軽に食べられるようになってきました。しかし、目新しい変わった物を探すより案外美味しい物は、ごく身近にたくさんあると思います。

時代のニーズと共に人は、文化を築き上げて来ましたが、地球星の日本に住む生物の中で私たち人間には、風土に見合わない不自然な現象が起きていると思うのです。

一尾の魚を食べる事が、難しいとか面倒くさい理由で軽減され、輸入の大ぶりな魚の切り身の方が需要を高めているのには不自然を感じます。

日本人は古来『海が近くにあるから魚を獲って食べていた。新鮮なので刺身で食べる文化があった』の理由から今は、『日本人は魚が好きだから』を前提とした食文化に移行しています。その結果、輸入食材に頼ることに抵抗がないのです。

私は、孫やひ孫の世代まで少しでも身近で美味しい伝統的な食材や食べ方を伝えていければと常々思います。

朝から晩までひたすら真剣勝負の板前修行をしていたので、その後一年間だけ別の世界を見たくて女の子らしくいられる百貨店での販売勤務をしました。

違う環境に身をおくと自然と遣りたい事が見え始め、主人が支店を出すと同時に再び板前人生スタートです。

今度は簡単な居酒屋ですが、カウンターに野菜や魚の煮物、おばんざいを沢山並べると会社帰りの方でよく賑わいました。

高級店から居酒屋形態への頭の切り替えに戸惑いましたが、お客さんが寛ぐ自然な感じがそのよさを伝えてくれました。

居酒屋に意向を替えて福島『鶏海山の幸おかだ』を開店。

在るとき親父さんに現状報告をした時のことです。
『あんたのご飯〔まかない〕は、美味しかったからなあ。』
と思いがけず、嬉しいお言葉を頂きました。

又、年齢と体力を考慮され、やむを得ず店を閉められた親父さんにお会いした際に、『あんたとしのさん〔仲居さん〕ともう一度店がしてみたかったな。』とつぶやかれました。涙が出るほど嬉しく、ずっと心の中に励ましと意欲と活力を与えてくれています。技術や腕前ではなく、親父さんの役に立ちたい一心でして来た思いが、伝わった結果だと心が温かくなりました。

そして、子供の誕生と共に10年続けた主人の割烹店、心斎橋『粋〔いき〕』を閉店。居酒屋に意向を替えて福島『鶏海山の幸おかだ』を開店。現在は、姉妹店の堂島『浪速割烹居酒家おかだ』を主人が切り盛り、福島『鶏海山の幸おかだ〔美人女将のおばんざいや〕』を私が、切り盛りしています。

『久しぶりに調味料に頼らない味を頂きました。美味しかったです。』『今日も美味しかったですよ。ここにくるのが僕の楽しみなのです。』『今日の疲れがぶっとんだな。』お客様にパワーチャージしていただくはずが、私も元気になったり、そんな心のキャッチボールが何より嬉しいです。

来店された皆様の今日の疲れが優しい味の料理で寛ぎ癒され、明日への活力が充電されるように、例えば、田舎に来た時に懐かしさで癒されほっとする空間のように、高級割烹店で培った技を活かし、確かな食材選びに日本料理の伝統的な調理法と味付けに盛り付け。来店の気軽さを目指し、忘れかけた日本の文化と伝統を残す為の努力と手間を惜しまない居酒屋でありたいと願い今日もあなたへ手作りのお料理を贈ります。

『鶏海山の幸おかだ』女将
岡田清香


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店舗基本情報 鶏海山の幸 おかだ
鶏海山の幸 おかだ

〒553-0003 大阪市福島区福島5丁目13-2

TEL 06-6455-3748 鶏海山の幸 おかだ

営業時間:18時~23時迄
定休日:日曜日 祭日 正月 お盆

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浪速割烹居酒家 おかだ

〒553-0003 大阪市北区堂島2丁目2-35

TEL 06-6346-6877 浪速割烹居酒家 おかだ

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